「いのちの移し替え」

「調理の間はいつも意識を集中させていないと、食材のいのちと心を通わせることができないですね。例えば野菜を茹でている時、火のそばを離れずじっと見ていると、野菜が大地に生きていた時より鮮やかな緑に輝く瞬間があります。
その時、茎を見ると透き通っています。その状態をとどめるために、すぐに火を止めて水で冷します。
透明になった時に火を止めるとおいしくて、体の隅々まで血が通うお料理ができるんです。
素材の味が残っているだけでなく、味が染み込みやすい時でもあるんですね。
野菜がなぜ透き通るかといえば、野菜のいのちが私たちのいのちと1つになるために、生まれ変わる瞬間だからです。私はそれを「いのちの移し替えの瞬間」と呼んでるの。
蚕(かいこ)がさなぎに変わる時も、最後の段階で一瞬、透明になるといいます。
焼き物も同じで、今まで土だったものが焼き物として生まれ変わる瞬間に、窯の中で透き通り、全く見えなくなるそうです。
いのちが生まれ変わったり、いのちといのちが1つになる瞬間に、すべてが透き通るのかもしれませんね。
透き通るということは、人生においても大切だと思いますね。心を透き通らせて脱皮し、また透き通らせて脱皮するというふうに成長し続けることが、生きている間の課題ではないでしょうか」

「食事したりすることが『生きる』そのものだと私は思っています。茹でるとか、切るとか、味付けするとかって、どこ1つ、おろそかにしてもおいしいものはできないし、大切にしなければできないので、『調理すること』が『生きる姿』そのものだと思うんですよね。
ごはん炊くのだって、米の研ぎ方とか、スイッチの入れる時間とか、もちろん水加減、できた時のほぐし方、よそい方、ご飯1粒ひとつぶが呼吸できるようにって。
食べてみて初めて見えない何かを感じてくれるんですね」

佐藤初女さんが天に召されたんですね。
映像と本でしか拝見していませんがとても大切なことを教えていただきました。
祈りとともに、合掌。

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週末、マイラがいなくなってまだ一週間経っていなかったけど、私が自由に動くことがマイラの望みだったので、父のお見舞いへ。
マイラは肉体から自由になって私と一緒にあちこち行けるのが嬉しいと聞かされ、そして私もそれをリアルに感じて心も軽く。

スカイマークの翼にはハート♡が。宇宙の空の色。

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父は、透析のおかげか驚くほどむくみがひいていた。私の顔をみて泣いたけど、心も、前に比べてずっとおだやかに感じる。

マイラのお腹がどんどん膨らんで一晩苦しんでいるときに、マイラが父の痛みを自分の体に引き寄せている気がして仕方なかった。そして、翌日、家族から連絡があって、父は前日までは肌が裂けそうなほど全身がむくんで食事もとれない状態だったけど、その日はなぜか手のむくみがひいてすごく楽そうで、食事もとれたと。マイラは父が限界だったのを知っていたのかな。。

そんなマイラのことを父に報告し、プリントしてきた、父の横にマイラがすわって食事を盗み食べしようとしているマイラの写真を見て笑ったり、思い出話。マイラがいる久米島の風景をみてえぇとこやなぁと。
そして、この病室にもマイラが一緒にいて笑ってる。

昨日の夜、私は実家で寝たんだけど、居間のこたつに入っていたら、何度も父が外から居間に入ってきたり、こたつで寝ているのを感じた。
今朝、病院に着いた時、父は、うつらうつらしながら、「ここはウチやろやろ?」と。
寝ぼけているより実際に魂が行ったりきたりしているんだろうなぁと感じる。

そして、父は、以前はまったくといっていいほど母のことは口にしなかったけど、今回は、口を開けば母の体調や運転を気遣う言葉ばかり。そして、夜中、看護師さんには「順子さん、順子さん呼んでくれ」と母の名前を呼んでたらしい。父が母の名前を言うことなんて聞いたことなかった。自分が逝くときには、母にどうしても側にいてほしいらしく、父がどれだけ母を頼りにしているか、愛しているかを思っている。

大きな大きな、とても大きなギフト

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マイラのスピリットが肉体を離れて2日半経ちました。

いろいろ助けてくださったり、心配して訪ねてきてくださったり、メッセージをくださったりしてくださっているみなさんとのお話の中や、1人になってあれこれ思う中で、あああれはそういうことだったのかという気付きがいくつもあったり、偶然とは思えないつながりが見えて静かにびっくりしたりと、感慨深くそれぞれの時間をいとおしく感じています。

体があると様々な欲や要求が出てきたり、エゴや自我が強くなってしまいがちですが、その内側には慈愛そのものの魂がいることを、マイラにまざまざと見せつけられた気がします。

マイラは、犬の形をしているけど犬ではなく、中に絶対何か入っている!と会った友人たちは口々に言っていましたが、昨日、友人と話す中でマイラの幼い時の写真の目をみたときに、その中にいるものが何だったのか、そしてなぜ犬の形をして私のところにやってきたのかわかった気がします。

また、この世に体を持って生まれて来るのは、人や動物関係なく、愛を与え愛を受け取るためだということが身に沁みてわかりました。私は特に受け取りべただけど、、マイラはそれを知っていて最後にこれでもか!というくらい愛を与えてくれました。

昨日の夜はマイラが夢にでてきてくれないかと願って眠りましたが出てきてはくれず、かわりに男の人にとても愛されている夢をみました。でも、起きてマイラがいないと無性にあのしっかりした体を抱きしめたくなったりもします。

まだまだ心の整理中、そして去年から続いている大好きな人たちのスピリットへの移行、父が闘病中というので私の中の物語は続くので、気付きをメモしながらまとめていくつもりです。みなさん、ほんとにほんとにありがとうございます。

祈り

11月末に久米島に遊びに来てくれたちえさんが、ちょうど父が危篤のときに何かをキャッチして連絡をくれ、父の状況を伝えると、父に伝えてと祈りの言葉を送ってくれた。

意識が少し戻りはじめた父に「友達が、楽になるようにって祈ってくれとるから、それを読むよ」と、父にその言葉を読んで聞かせた。すると、その類いの言葉にはおそらくまったく馴染みがなかったであろう父の顔がふっと緩んで「ああ、ええ言葉や。ありがとう」と半分うわごとのようにつぶやき深く頷いた。
声に出して読んだ私の心も、とても深いところで何かが融けていくのを感じて楽になっていくと同時に「ああそうだった、父は、ほんとうはすべてわかっているんだ」という確信と同時に目が覚めるような感覚にもなった。
ちえさんが送ってくれたその言葉には、意図も邪心も願いもなく、ただ純粋な何かが記されている。それこそが本物の祈りというものであって、無心だからこそ伝わるんだろうと思った。
この時のことをちえさんがブログに書いて下さっています。
これは、ちえさんが久米島に来てくれたときからつながっていて、さらにそれは家族や私のパートナーや彼の両親との関係ともつながっていて、一気に謎がとけるように愛がひろがっていき、そして、くもりのない愛の目でいることがどんなに大切かを教えてもらっています。ちえさん、ありがとう!!!

ライフレッスン

けっこう若いときから自分はどこでどうやって死んでいくのか考えるのが好きだった。それを想像することはどんなことよりもわくわくする。死に方は、生き方そのものだから。そして自分の生き方に責任をもつことが好きだから。

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エリザベス・キューブラー・ロスの本をどうしても読まなくてはという気になって実家の本棚から持ってきた『ライフ・レッスン』。キューブラー・ロスは、精神科医でターミナルケア、サナトロジー(死の科学)のパイオニア的存在で、私がテレビ局時代に人間の本質を探る番組を作っていったとき、その著作の数々を読ませてもらっていたけれど、今、改めて読み返してみると身に沁みて腑に落ちる言葉がちりばめられ、また、さまざまな感情を理解する助けとなってくれている。先達が死の間際に残してくれた言葉を今あたらめてしみじみありがたいと思う。
まえがきより:
「一生」とよばれるこの時間のあいだには、学ぶべきさまざまなレッスンがある。とりわけ死に直面した人たちとともにいるとき、そのことを痛感する。死にゆくひとびとは人生のおわりに多くを学ぶが、ほとんどのばあい、学んだ教訓を生かすための時間が残されていない。
(中略)
わたしたちひとりひとりのなかにガンジーとヒットラーが住んでいる。もちろん象徴的な意味で。ガンジーは人間のなかにある最良のもの、もっとも慈悲深いものをあらわし、ヒットラーは最悪のもの、人間のなかにある否定性と卑小性をあらわしている。人生のレッスンとは、みずからの卑小性にはたらきかけ、否定性をとりのぞいて、自己のなかにも他者のなかにもある最良のものをみいだす作業にかかわるものだ。人生の暴風にも似たそのレッスンは、わたしたちを本来のわたしたちに立ちかえしてくれる。私たちはたがいに癒しあい、また自己を癒すために地上に生まれてきた。そては身体症状の回復という意味での癒しではなく、はるかに深いレベルでの癒し、精神の、そしてたましいの癒しである。
(中略)
人生には学ぶべきレッスンがあまりにも多く、一度きりの人生ではとても習得しきることはできない。しかし、学べば学ぶほど未完結の問題が少なくなり、そのぶんだけ充実した人生となって、ほんとうに生きることができるようになる。そして、いつ死ぬ事になっても、胸をはっていうことができる。「ああ、わたしは生きた!」と。
・・・
そう、そうやって最後に「生ききった」と心の底から思えるように、その時々に起こることをフルに体験し味わい美しい景色を堪能し平凡のなかにある非凡さに気付くことでしみじみと幸福を感じていけたらと思う。
父の看病で、まる5日、たった5日ではあるけれど、1時間に1回「おしっこ!」と言われるたびにおむつを開け陰茎をひっぱり出して尿瓶をあてがい排泄の手伝いをしながら、自分はなんて幸せ者なのだろうと、こんなふうに世話をさせてくれる父に、時に涙をぼろぼろ流しながら感謝した。まさに、これこそが、父が与えてくれた魂の癒し、ライフレッスンそのものなんだな。

家族

なぜこのことが自分に起きるのか、なぜその人に出会ったのか、いつも、その奥深く
にある意味を考える。本当は答えを知っているけどそれに気付かないでいる。様々な感情を体験して自分の力で気付かないと本物の学びにはならないから。
過去に、私の輪廻転生は今回が最後だと3人に言われたことがあるけれど、そのためには今世でまだまだ学ぶ事がたくさんある。
父は、全身で苦しみに耐えながら、魂レベルで、私に途方もない学びを与えてくれている、そんなことを思った。

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2015新年明けての家族写真。いままで生きてきた中でいちばん好きな写真。

たからもの

ゆったりスケジュールの土曜の朝。目が覚めると足元にマイラが丸くなってまだ深く眠っている。
ベッドの中で、鳥の声や風で揺れる葉っぱの音を聴きながら、ああなんて自分は愛されてるんだろうと全身で感じ、感謝の思いでいっぱいになった。
いつも朝は少なからずこの幸せを感じている。
でも今日は、久しぶりに強くて大きくて深い愛を感じた。
きっと、ちえさん&ヒデさんとの再会、そしてマリアの旅立ちが、原点に戻れと教えてくれているんだと思った。
現実では、パートナーとのごたごた、病の父と介護の母の葛藤、、解決できたら思うことはいろいろあるし頭で分析していろいろ考えてみるけれど、その底流にあるのはやっぱり愛なんだなあ。

ちえさんとの出会いはちょうど5年前の11月!オーラリーディング(透視リーディング)というのをやっていただいて、肉体のまわりに幾重にもあるエネルギーの層とそこから見える本来の自分の姿などをみてもらった。このへんのエネルギー層の話は、なじみがないとアヤしく聞こえるかもしれないけど、タオの思想やレイキをやる人やチャクラのエネルギーを知る人にとっては確かな現実で。

そのときの私のブログの記事がこれ

今読み返すとなんとも感慨深い。この頃はまだ私はテレビ局にいて倉本聰さんの環境問題の番組を作っている頃、そしてチネイザンを学び、エサレンを初めて受けた頃。そして笑っちゃうくらい自分の進んでいる方向が示されている。私にとってこの人生で何より大切なのは『愛と自由』でプライオリティー100%!!!、『名声と物質的豊かさ』は10%(笑)

そして、この時はもう会社を辞めることを決めていたので、ちえさんのこのリーディングで私は背中を押され、確信し、この先の人生を後悔のないように生きようと思ったのでした。しかし、今の自分、まだまだだなあ。あらためて、修行はじまったばかり感。

その後、ちえさんとヒデさんが私の習いたてのチネイザン(内臓トリートメント)を受けに来て下さったり、私がちえさんたちの岐阜の恵那のリトリートにお邪魔したり。

ちえさんが書いてくれたチネイザン体験の記事、読みかえすとこれも感慨深いなあ。私の理解よりもはるかに本質が書かれてます(汗、、

そして5年。

ちえさんとヒデさんが、わざわざこの遠い久米島まで会いにきてくれた。

そしていただいたのが、ちえさんが最近はじめたというこの絵。私を思いながら描いてくださったのだそう。ほんとにほんとに光栄でなんてありがたいこと!

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なんてやさしくて愛にあふれた絵なんだろう。女性らしいあたたかな太陽、天空の音楽を楽しむ蝶に波と生きる喜びに満ちた魚。

この絵はゼンタングルという手法だそうです。ゼンは禅、タングルは絡まるという意味。禅の哲学を取り入れて一定のパターンを絡ませて描くという手法だそうで、マンダラを描いたり写経をしている時の心の状態になりそうな感じ。思い出したら、学生の時や旅しているときにノートの端にこういうの描くの好きだった!

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そして、マイラさんが!!!なんて気持ちよさそうなの〜。これを見て、あらためて、マイラは私の見守り神なんだなあと思った。何もしてあげてないけどそれでも最愛の友でいてくれるマイラさん。いつもほったらかしでごめんねマイラ。

ありがとう、ちえさん♡♡♡

お昼に到着して久々に会った二人をお迎えしてやん小〜さんでもやしそばをいただき、久米島めぐり。まずはちんべーさんにご挨拶をして五枝の松へ、うねる松の体内宇宙の中に入って、道沿いの桑の実を夢中になって食べ(笑)、登武那覇のいちばん上の岩によじ上り青い海が広がる景色を深呼吸、宇江城趾へ向かい観音堂でご挨拶とふだんの暮らしのお礼を言い(このときちえさんの口から厳かで響きのよいマントラが出てきて驚きしかしそのマントラを聴きながら見た観音様はなんともやさしくて慈悲にあふれていた)そしてひみつのスポットではこの世界の生きとし生けるものがすべてつながっている静かで確かででも不思議な感覚を味わい、宇江城趾で風に吹かれながら昔の琉球王国時代に思いを馳せ、遥か遠くの海面を照らす光の美しさに感動、日が落ちかける前に熱帯魚の家でコバルトブルーの魚たちに魅入り、ちえさんが夕陽を見たいというので日没ギリギリにミーフガーへ。岩の産道の下で生命の再生を感じ、見上げた岩はとてもやさしくそしてちえさんがいくつもの穏やかな顔が見えると言うのでよく見てみたらほんとにいろんなお顔が見え、なんだかガウディーのサグラダファミリアの壁面にも見えてきたり、、そしてミーフガーって子宮だったんだなあと改めて感じた。やっぱりゴミが気になったけどそれも今の地球と人の自身の体の扱いを象徴しているよう。。そしてミーフガーから海沿いを行き、私の好きな原始の風景の中で静かな波音を感じながら雲を眺めた。空には魚やカメや鳥やいろんな動物たちが姿を変えながら浮かんでいた。

ちえさんヒデさんと一緒に巡る久米島はいつにも増してそのほんとの姿をみせてくれている感じがした。

そして行く先々でダンスしながら生を謳歌する蝶たちに出会った。この蝶たちは越冬のために海を渡るアサギマダラ。旅の途中に久米島にも立ち寄る。カリフォルニアでもこれよりひとまわり大きなオオカバマダラが渡りの途中にエサレンに立ち寄る。そんなことを思っていたら、その日にエサレンの恩師マリアの魂が旅立ったことを翌日知らされた。

そしてそして、驚いたことに、この日出会ったダンスする蝶や太陽や海や魚は、ちえさんのゼンタングルの絵の中に全部描かれていたのよねん。ちえさん、予言までしてしまう人だったんだびっくり!!!(笑)

(まだまだ書き留めておきたいことがあるんだけど今日はこのへんで続きはまた。)

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ちえさん&ヒデさんのHPはこちら

とてもこわいこと。

国会で特定秘密保護法案が制定されようとしている動きの中での、作家・辺見庸さんの話がまさに納得させられることばかりなので残しておこう。
「(ファシズムは)銃剣持ってざくざく行進というんじゃない。ファシズムはむしろ普通の職場、ルーティンワーク(日々の作業)の中にある。誰に指示されたわけでもないのに、自分の考えのない人びとが、どこからか文句が来るのが嫌だと、個人の表現や動きをしばりにかかるんです」

「昔は気持ち悪いものは気持ち悪いと言えたんですよ。ところが今は『花は咲く』(被災地を応援するキャンペーンソング)を毛嫌いするような人物は反社会性人格障害や敵性思想傾向を疑われ、それとなく所属組織や社会から監視されてしまうようなムードがあるんじゃないの?」 

「日本のファシズムは、必ずしも外部権力によって強制されたものじゃなく、内発的に求めていくことに非常に顕著な特徴がある。職場の日々の仕事がスムーズに進み、どこからもクレームがかからない。みんなで静かに。自分の方からね。別に政府や行政から圧力がかかるわけじゃないのに。」

ただでさえ保身で波風たてたくないという人たちが大多数の日本で、さらに戦前の治安維持法と違わない特定秘密保護法でもの言う人たちを縛り権力が罰するという方向へ向っている現在。

そして、2006年の安倍政権時に改憲論が出された当時の辺見さんの話。
”普段はルーチン化した日常の淵に眠りこけているが、人の生から決して滅却することのできない「個体」としての単独者について、まさに単独者として語ること。それはおのれの「内心の声」に真摯に向き合うことを意味します。容易なことではありません。しかし、そのような体内の奥深くから届く声に耳をそばだて、自分の身体を通して発せられる言葉こそが、「不快な時代を堪えていく道筋」になると辺見氏は言います。”

ドラマでは、半沢直樹とかドクターXとか、一匹狼な主役が人気みたいだけど、現実にそいうやって言いたい事を言える人なんてごくわずか。私なんて権威なんてまったくどうでもいいからおかしいことはおかしいって言うけど、そうすると権威を維持したい人間は排除にかかる。表面上、どんなにご立派なことをしてるように見える人でもそういうことをする。何年か経って「あなたの言う事が正しかった」なんて言ってくれるのはまだマシで、聞く耳もたずが多いから言われたことも忘れて後悔するってわけ。

人間、謙虚に反省の心を持つって、ほんと大事なことだと思う。そして、うすうす感じる”気持ち悪さ””違和感”の元を掘り下げること。そういう個としての哲学的思考をしたいものだと改めて思った。もちろん自分の勘が正しいかどうかの疑いもすくめて。”正しさ”の基準がこれまた難しいけど。自分メモ。

さて。

今年はよく遊んだなーほんとによく遊んだ。年を重ねるごとに旅をするごとに好きな人や好きな土地がどんどん増えてゆく。魔法みたいに。そして欲しい物がどんどん減ってゆく。それと反比例するように見えてくる世界の豊かさ。あぁこの世界はいったい幾重のレイヤーが重なってできているのだろう。それを思うとしあわあせで胸がいっぱいになり気が遠くなる。私というエゴをなくすことでどれだけ世界が豊かなのかを垣間見ることができるとわかった今、後半生にはどんな出会いがあるのだろうか。すごく楽しみ。でも執着はしない。簡単に手放せるということは自分のもっともありがたい才能のひとつ。でも、確実に、いとおしい存在を失ってゆく運命が待っていることだけはわかっている。愛が深ければ深いほどその穴は大きいだろう。それでも世界は豊かであり続けるはずと、そう思える準備を今はしているところなんだろうな。小さな胸の痛みを何度も経験しながら。さて、明日は何をしようかな?

あああぁ~素晴らしすぎる・・・泣けてくる~~~

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